人生はグローバリズムの対極にあり

 きょうは早朝の予定はなくて、ゆっくり。ぼうっとスマホのニュースを眺めていると、将棋界の話が目に入りました。

 将棋会館のそばで仕事したことがありますが、このニュースによれば館内のマスク着用は任意と思われます。しかしながら対局規定ではマスク着用が義務なんですねぇ。それも今年になって決めた臨時規定の様ですが、たしかにデルタ株の脅威があったとはいえ、本当にマスクが効くとしたらまず遅きに失した規定ですね。それに加えて現在はマスクが効かないオミクロンですから、もう呆れてしまいます。

 まあ競技ルールは中で決めることですから、外野がともかく言うことではないのですが、静かな対局室ですから換気さえすればもう対策は十分に思えます。政府や厚労省もマスク着用は基本的には任意だと言っているのだから、基本的人権に抵触するおそれのある対局規定ですよね。

 しかし、他所でも再三ある話ですが、こんなことをいちいち裁判で争うことになりません。そう思うと改めて感じるのは、グローバルダイニングさんが東京都の時短要請などに対して勝訴されたことは、値千金のフリーダムファイティングなわけです。国や都だから、専門家の知見だからといえども、平気で法を犯してまで個人を縛ってくることが横行しているということです。

 これがグローバル社会のなれの果て、とはマレさんの言葉をお借りしますが、図らずもアンチグローバルをグローバルダイニングが実践されたという構図です。暴力やお金で勝ち取った立場を利用してのチカラ尽くの社会をこれ以上容認してはイケません。グローバル企業や投資家といった国境のない世界の住人にとって、世界を平準化してコントロールすることがコスパがよくて都合が良いのはわかりますが、実際は各々が個性を生きているのが現実です。

 つまり、背の高い人もいれば低い人もいるし、小麦がダメな人もいれば海苔が消化できない人もいるように、千差万別の人生が集まって相互扶助で成り立っているのが人間社会です。コロナ対策だって、日本民族にとっては当初から過剰対策だったでしょう。それをマスクやワクチンで画一的に縛ろうというのが、今となってはもう見え見えなわけです。

 今回は、将棋界の小さな事件ではありますが、もちろん対局者当人たちには多大なことであり、それ以上に、この小さなことをオカシイと言えないことが、自分の人生を生きるという哲学的な命題を放棄する結果を招く大問題であると知って欲しいと思います。