電力の民主化
デジタル庁の設置という話題からか、改めてデジタルという言葉が飛び交っている感じです。記憶を巡れば最初にデジタルを認識したのはカシオの腕時計だったと思います。それまで2針、3針のアナログ表示が当たり前であった腕時計にデジタルが登場して未来を感じました。
それからCDやレーザーディスクの登場です。オーディオや家電製品など身の回りの物が次々にデジタルを取り込んで行きました。
ついでデジタルを意識したのは、電話です。黒電話のダイアルを見なくなって久しいですが、そういう外形の変化よりも通信網に光ファイバーが登場して、肉声がデジタル化しました。今では音質も良くなったのか、それとも慣れたのか、最初はいつもの相手の声が判別しにくくなってしまい違和感がありました。
前世紀の終盤に登場したデジカメはあっという間に銀塩フィルムの画素数を超越してしまったのは衝撃的でした。受像素子や画像処理エンジンの進化で、今や暗がりでも鮮明な画像や、部品の軽量最小化で昔では考えられないアングル、ドローンの動画撮影にまで至っています。
今、つらつらと書き出して、上記のほとんどの性能がスマホ一台に収まっていることに改めて驚いてしまいます。
さて今回、感染症対応の渦中で、PCR陽性数の集計など、保健所とのやりとりが未だにFAXであったり、給付金の事務処理がネットから申し込んだにもかかわらず紙に出力して付き合わせをしていたことなど、行政のデジタル化の遅れが際立ちました。
この一連の失敗から、デジタル庁の設置が急務なのは当然で、アフリカのマサイ族がYouTubeで稼ぐ様に、旧泰然としたアナログ社会であっても一気にデジタル化が進むでしょう。そういう当然のことは大した課題ではなくて、やはり昨日もあげた通貨のデジタル化など、本質的にまったく新しいプラットホームによる管理社会を目指しているのかと思います。
そこで、ますます電力の安定供給と資源確保が重要課題になるでしょう。原発の是非にも至る話ですが、北海道札幌の大停電は原発の停止が影を落としていたり、、、原発もそうですが、石炭、石油、天然ガスなどの方が改めて重要になって来ます。そうなるとエジソンから始まったこの電気文明にもやがて限界が来るのでしょうか。ニコラ・テスラが発見した地球そのものから電気を取り出して電波で供給するシステムは封印されていますが、本物でしょうか?どこまで実用化が可能なのでしょうか。世界統一通貨に至るには、電力の民主化といった普遍的な供給による新しい文明社会が前提になると思います。