原爆の日に一言

 毎日暑いです。今日は広島原爆の日、虎ノ門ニュースのスタジオ音声が時折、アメリカ大使館にむけた右翼街宣車の騒音に掻き消されていました。

 毎年この時期になると、いろいろな意味で戦争を反省する企画が、テレビやその他で出てきます。じゃあ古本も戦記モノが売れるかと言えば、そうでも無いような気がしています。そもそもが暑いので、本を読む気にならなくなるのか、毎年8月は売上を立てるのに苦労します。

 先の戦争については、当事者がどんどん亡くなって生き証人がもう存在しなくなってきました。先日97歳で亡くなった李登輝さんは学徒出陣でした。本当の当事者はそのもう1つ2つ上の世代ですから、もう色々と闇の中です。

 闇の中といえば、戦後しばらく国交断絶していた当時のソ連で働いていた方とお会いしましたが、もちろん超弩級の機密事項の当事者ですから、墓場まで持っていく事ばかりだとついに語ってはもらえませんでした。

 この仕事をしていると、書籍の買取を通じて様々な出会いがありますが、個人情報を含めて当然に守秘義務がありますので、なんでもブログに掲載する訳にはいかないのは残念です。

 話を戦争に戻せば、民主国家においては戦闘行為を家業とする一家は普通存在しませんので、近現代の戦争は特に悲惨になるということが理解できていません。誤解を恐れずに言えば、民主主義が戦争を悲惨なものにしたと言う事です。

 良し悪しは別に、暴力で物事の決着をつけると言う事態がある訳です。西部劇の果し合いとか、源平合戦の名乗りをあげる場面とか、戦いで決着をつけるにはルールがありました。つまり元々、戦争にはルールがあり、その範囲での戦闘行為ならば、実害をなるべく最小に抑えるような抑止力も働いていたのでした。

 ですから古代のカルタゴの様ではいけないと言うのが常識でした。戦いを仕掛けられたら応じねば全滅を意味していたのも、つまり戦争をしないと一方的に殺戮されたのが人類史における現実です。

 先の大戦の是非を語るものではありませんが、近現代に於いては戦争のルールがどんどん逸脱していった果てのWWⅡであったと言う一面があります。そのなかで、我が帝国陸海軍は、ほとんどそのルールを外れたことはありません。

 パールハーバーの奇襲は?と言いますが、宣戦布告の是非は戦後に刷り込まれた話であり、奇襲作戦が卑怯とは言えないのは当時の慣例です。むしろ真珠湾攻撃で、1人の民間人にも死者を出すことなく軍事施設だけの急襲に成功したのは、帝国軍人の誇りと練度をよく現しています。

 その一方で、広島・長崎の原爆です。あるいは東京大空襲など、、、明らかに国際法違反、つまり戦争のルールを逸脱している訳です。

 今日、戦争は形を変えて現れてきています。このコロナ禍をみても、炭疽菌の様な毒性の高いものでなくとも容易に社会を混乱に貶めることが分かりました。果たして我々はそう言う変質した戦いに対応できているのでしょうか?

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